董卓 仲穎(?〜192)
役職 尚父
武力 ■■■■■■■■ B(88)
知力 ■■■■■■ B(76)
統率 ■■■■■■■■■ A(90)



名前の呼び方は「とうたく ちゅうえい」。三国志最大の暴君。かなりの
肥満体だったといわれるが、馬術に優れ膂力も並外れていた。越騎校尉の
伍フが董卓を暗殺しようと董卓の腹を短刀で突き刺したが、董卓は腹から
短刀を引き抜き事も無げに伍フを取り押さえたという逸話がある。


董卓は元は辺境を守る将軍の一人にすぎなかったが、何進と宦官の抗争で
都が混乱するなか、都から逃げ出していた皇帝を保護。さらに西涼の大軍を
率いて上洛し、一気に権力を手中に収めた。董卓は反対勢力を抹殺するなど
董卓の横暴は止まるところをしらず、夏の桀王、殷の紂王などと並び評される
ほどの悪行を重ねた。


【董卓の主な悪行】
少帝の廃位、殺害。何太后の殺害
反対勢力の抹殺
空前絶後の恐怖政治
村祭り中の村人に難癖をつけ男は殺害、女は誘拐
投降兵をスープにして皆にご馳走
洛陽に放火、更に洛陽の金持ちを殺害、財産没収
歴代皇帝の陵墓の盗掘
「太師」「相国」「尚父」などの名誉称号を勝手に名乗る
貨幣を粗悪なものに改鋳(貨幣価値の下落、市場の混乱)
巨大な城を建造。贅の限りを尽くす


董卓の専横に怒りを感じた諸侯は「反董卓連合」を結成。しかし董卓軍の強さに
諸侯は沈黙。曹操、孫堅らの活躍で洛陽の街を捨てることにはなるが董卓は
洛陽に火をつけ逃走。長安を新たな都にするという暴挙にでた。暴虐を重ね
栄華を誇った董卓だったが、最期は王允と呂布の裏切りによってあっけなく
殺された。董卓の一族も皆殺しにされた。董卓の死体は丸裸にされ長安の街に
晒された。ある兵士が董卓の死体のへそに蝋燭を刺し灯したところ、火は何日
たっても消えなかったという。





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